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作成者 : 管理者
作成日 : 2010/07/26 照会 : 12 |
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| タイトル |
ユン・ピリョン事件 |
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ユン・ピリョン事件
絶対的な権力の座にいる者が一番嫌がる言葉がある。「次は誰々になる」だ。下の者は、権力の座を奪い、政敵を覆そうとするとき、権力者のこうした性向を逆利用する。(そして)「次は○○がなる(なろうとしている)そうだよ」と、発言者の名前をほのめかす。
朝鮮時代の中宗の時代、文人官僚の趙光祖(チョ・カンジョ)=1482−1519年=は、「性理学による王道政治を実現するには、若い士大夫(文人官僚)たちが権力を握るべき」と考えた。これに危機を感じた勲旧派(支配階級)は、宮中の木の葉に「みつ」を溶かした水で「走肖為王」と書き、虫が葉を食べるよう細工した。「走」という字と「肖」という字を合わせれば、「趙」になる。つまり、「趙という姓を持つ者が王になる」という意味だ。勲旧派はこの葉を摘み取り、王にささげ、「趙光祖が王になることを夢見ている」と語った。それ以後、趙光祖には毒薬が盛られ、妻子は奴婢(ぬひ)となった。
派閥争いでは、「誰々が大きなはかりごとをしている」と事をでっち上げたり、告げ口することがよくあった。光海君(1575−1641年)は王の座に就いてからも、兄・臨海君(1574−1609年)と異母弟・永昌大君(1606−14年)の存在を疎ましく思っていた。光海君を王座に就かせた大北派は、謀反のぬれ衣を着せ、臨海君と永昌大君を殺害した。丙子胡乱(1636−37年、清が朝鮮に侵入・制圧した戦い)のとき、清に連行された昭顕世子(1612−45年)は、9年後に帰国したが、謎の死を遂げた。父・仁祖と西人派は、昭顕世子を王に推挙しようとする政敵たちの動きに耐えられなかったのだろう。
1973年、「ユン・ピリョン事件」が世を騒がせた。軍部の実力者ユン・ピリョン首都警備司令官が、夕食の席で中央情報部(KCIA)=現・国家情報院=の李厚洛(イ・フラク)部長に、「閣下(当時の朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領)はお年になる前に退き、あなた(李厚洛中央情報部長)が後継者になるべき」と話した、と誰かが朴大統領に告げ口したのだ。朴大統領は激しく怒り、ユン首都警備司令官と側近の将校数十人を拘束・解任した。それ以来、「後継者論議」を引き起こしたとされるユン・ピリョン氏と李厚洛氏は権力の中枢から外れ、これを事件化した勢力は権力の甘いみつを少し長く味わった。
しかし、その6年後に朴大統領体制は崩れ、絶対権力に媚びへつらい、後継者の座を狙う謀略や暗闘は終わりを告げた。ユン・ピリョン氏は当時、横領や収賄などで拘束されたが、彼にわいろを渡したという人物は36年たった昨年、再審で無罪判決を勝ち取った。そのユン・ピリョン氏が24日、死去した。これで「ユン・ピリョン事件」の主役たちは全員、この世を去ったことになる。権力の座を目指した人間の欲望は果てしないが、欲望の結末には、やはりむなしさだけが残る。
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